別れ
首都圏のプラネタリウムの施設を持つ科学館への就職が決まったのは30歳の秋でした。その年の暮れに職場に退職願を出し、年が明けてから引越しの荷物をまとめ、新しい土地での住まいを求めて何度か東京と宮崎を往復して、あわただしい日々が過ぎていきました。新しい土地での生活に不安を覚えながら、すべての荷物を運送業者にお願いして、あとは自分たちが東京へ旅立つだけになっていました。2月の上旬、宮崎最後の数日間は、妻の実家で過ごしました。穏やかな数日間でしたが、別れを目前に控えているせいか、皆、口数は多くありませんでした。
いよいよ東京へと旅立つ日がやってきました。空港まで妻の両親が見送りにきてくれました。出発の時間が近づき、いよいよ妻の両親との別れのときがやってきました。「元気でな!」妻の父が発した短い言葉に、皆が胸を詰まらせてしまいました。その短い一言は、いろいろな意味を含んでいて、とても重く感じました。涙が止め度もなく流れてきました。これほどつらい別れを経験したのは、18歳で、わけもわからず実家から東京に出てきたとき以来でした。
東京へ向かう機内では、二人とも終止無言で、お互いにあふれ出る涙を拭い去るのに精一杯でした。羽田から電車を乗り継ぎ、これからの私たちの生活の拠点となる街の、駅前のホテルに入りました。まだ宮崎から、住まいとなる家まで荷物が届いていなかったからです。前日、首都圏にしては珍しく大雪が降ったらしく、駅前のホテルまでの距離は、たいしたことはありませんでしたが、そこまでたどり着くのに2,3回雪に足をとられて転びました。これから先どうなってしまうのか、言い知れない不安が私たちを襲ってきました。
こうして、新しい土地での私たちの生活が始まったのです。あれから20数年、そのときの旅立ちのことは、まるで昨日の事のように覚えています。プラネタリウムの現場での経験はすでに30年を越えてしまいました。いま、私たちは、これからの老後に備えて、残りの人生をどのように有意義に過ごしていけばよいのか、考える時期に来ています。プラネタリウムでやり残したことをどのように片付けるかを含めて、穏やかな日々を送れるようにしたいと考えています。あのときの別れで思った気持ちを、心の奥に今も残しながら・・・
2006(平成18年)3月10日記述