タイで見た皆既日食
さる10月24日、インドや東南アジアなどで皆既日食が見られ、タイに出かけた。私にとって海外での日食観測は1991年のハワイ以来である。
観測地は、タイ北部のチョク・チャイにある学校の校庭。日食前夜、私たちは、外で仮眠を取った。私は翌朝に備えてセットした望遠鏡のそばで横になった。すでに夜半を過ぎており、オリオン座が天頂近くまで上っていた。時折襲ってくる雲を気にかけながら夜明けを待った。カノープスという1等星が南の空をじりじりと動いていく。それにしてもなんと長い夜であろうか。
太陽が高度を上げるにつれて空は快晴に近くなった。校庭は現地の人々と日本人で膨れあがった。このままいけそうだと思った途端、体の中を緊張感が走った。太陽の西側から、月が次第に太陽を隠していく。50パーセントくらい太陽が欠けた頃であろうか。空は鉛色にどんよりと暗くなり、痛いほどだった日差しがだいぶ弱くなった。
皆既日食の直前の空の変化は想像を絶するものだ。太陽が弓なりに細くなるころ、その下に金星が見え出した。いつの間にか、風が吹き始める。皆既日食のときに必ず体験する風だ。皆が息を呑んで見守るなか、太陽は一点の光を残して月に隠された。大空にかかるダイヤモンドリングである。体中が震え、その美しさに見とれながらも、夢中でカメラのシャッターを切った。
望遠鏡から目を離すと、濃紺の空をバックに真珠色のコロナが、黒い太陽の周りを囲んでいる。それはこれまで目にしたどの光景よりもはるかに美しく、荘厳であった。厳粛な気持ちにさせられた。わけもなく涙があふれそうになった。再び太陽の一点から光がこぼれたかと思うと、空は見る見る明るさを取り戻していく。
あっという間の1分40秒間であったが、それは凍りつくような長い時間にも感じられた。
(1995年/平成7年11月14日(火曜日)の東京新聞科学面に掲載)