修行


 私がプラネタリウムの修行のために九州に移ったのは24歳の夏でした。親戚も知り合いもいない土地で、しかも生まれてはじめて体験する九州の夏の本格的な暑さには、少々面食らいました。宮崎について、わずか3日目には体調を崩してダウンしてしまいました。多分、その暑さと、環境が激変したためのストレスに体が対応できなかったのでしょう。これから先どのようなことが待っているのか、言い知れない不安が襲ってきました。しかし、それは一方で人生を左右するような運命的な出会いをもたらすことにもなったのです。

写真は宮崎の代表的な風景:日南海岸堀切峠 
宮崎市在住当時に撮影/ペンタックス6×7 105ミリF2.4
 

 プラネタリウムに関する勉強は毎日、夜遅くまで続けました。。当時はまだコンピューターもワードプロセッサーもありませんでしたので、たとえばスライドの原画イラストに文字を入れるためには、イラストの勉強もさることながら、文字を筆で描くテクニックも必要だったのです。運良くその職場には、販売促進課や制作室というものがあって、テナントのPOPや看板などを手がけていました。そこに出入りするようになり、POPや看板制作のテクニックの手ほどきを受ける一方で、Kさんからも指導を受け、夜帰宅すると毎晩、新聞紙に四角い升目を作ってそのなかに一文字一文字、2時間程度の練習を繰り返しました。

 また、プラネタリウムを続ける上において、位置天文学の知識は欠かせないものです。このため、高校時代の数学の教科書を最初のページから勉強しなおしました。それから天文計算の入門書、軌道計算の解説書、そして海外の位置天文学の解説書などを、電卓を片手に例題を計算しながら、マスターしていきました。電卓で6桁から8桁の小数点を扱う、天文の計算は時間がかかるもので、ひとつの例題を計算するには、平均して1週間から10日くらいかかりました。今ならパソコンを使えば、これらの計算はプログラムさえ組んでしまえば、1秒以下です。夜になると、このような勉強のため、寝るのはほとんど午前1時過ぎになりました。収入面では苦しかったものの、このような勉強が、後に首都圏のプラネタリウムに勤務するようになってから、大きな武器になったのはいうまでもありません。

 あれから、約30年近くの時間が経過しました。宮崎での運命的な出会いをもたらした人物は、今は妻として、傍らにいます。


当時を思い出しながら記述 2006(平成18)年2月27日