閉鎖


 宮崎市の民間のプラネタリウムに勤めてから約6年近くが経過した夏のことです。予期していない(ある程度の覚悟はしていましたが・・・)出来事が起こりました。

 ある日、上司に呼ばれました。「プラネタリウムを閉鎖することになった。あと2ヶ月程度で閉鎖をするため、不要なものなどを処分して閉鎖の準備をしてもらいたい」。利用者が少なくなったための措置でした。同じ頃、それ以前に勤務していた水戸市のプラネタリウムでも、似たような状況になっていました。今でもそうですが、民間の企業がプラネタリウムを経営して採算ベースに乗せていくのは、並大抵なことではありません。利用者を確保することも当然ですが、機器のメンテナンス、空調などランニングコストが思った以上にかかるからです。当時使用していたプラネタリウムは、今日の大掛かりで複雑な機械と比べるとシステム全体が単純で、機械が故障することは極めてまれでした。また定期点検なども年に一度も行えばそれでよかったのです。番組もほとんど自作でしたから、コストもそれほどではありませんでしたが、それでも施設全体を運営するには、相当な経費が必要でした。

 それから2ヶ月くらいかけて閉鎖の準備を行いました。最後に、もう二度と使用することのない投影機に感謝の意味を込めて、きれいにクリーニングを行い、全ての機器の電源を落とすときには、さすがに胸が詰まる思いがしました。そして翌日からは、そのショッピングセンターの販売促進課で働くことになりました。それまでに私が看板やPOPを描けるようになっていたのを評価してくれ、その課の課長が引っ張ってくれたためです。「芸は身をたすく」とはよく言ったものだと思いました。当時、そのショッピングセンターで販売促進課はかなりの力を持っていたように思いますが、私にとっては、九州に行った本来の目的は、プラネタリウムの修行でしたから、回り道に過ぎませんでした。周囲から見れば、はるばる宮崎まで修行に来て何をやっているのだ、と思われていたのかもしれません。しかし、生活をしていくためには、現実を受け入れざるを得ない状況でした。

 それからというもの、私は職場で、筆を握ってPOPや看板を描く時間が圧倒的に多くなりました。それ以外の時間は、ほとんどイベントの準備やディスプレイの変更、人手が少ないセクションなどのお手伝いでした。しかし、このときの経験が後になって、大きな役に立つことになるのです。筆を使って文字を描く技術は、日に日にスピードを増し、また美しい文字が描けるようになっていきました。それはそれでおもしろかったのですが、半年を過ぎた頃から、私の心の中には、プラネタリウムの現場に戻りたいと思う気持ちが次第に強くなっていったのでした。

 当時、プラネタリウムは地方都市でも各市が導入を始めた頃でした。20メートルドームを超える施設がぽつぽつと出始め、またスライド投影機も、それまでの10台程度から100台程度を制御し、システム全体もマニュアル制御からフルオートへと移行する過渡期で、私は心の中で次第に焦りを感じるようになっていったのでした。そしてその年の暮れも押し迫ったある日、耳寄りな情報が私の耳に入ってきました。それは首都圏の科学館で大きなプラネタリウムを導入し、近日中にオープンするというものでした。

 この情報が、私のその後の仕事と生活を再び一変させるきっかけとなったのでした。


2006(平成18年)3月4日記述