分岐点


 プラネタリウムを始めて5年も経過すると、いろいろなことを一通り覚えてくるため、マンネリ化が生じてきます。私がプラネタリウムの世界に入って仕事をするようになぅたのは1972年頃ですが、その当時はプラネタリウムがまだ1県に1台程度のものであり、現在のように市の施設としてプラネタリウムを所有するというのは極めてまれなケースでしした。

 当時は現在のように、インターネットもなければパーソナル・コンピューターの影も形もない時代であり、もちろんFAXさえありませんでした。おまけにプラネタリウム解説員という職業自体が特殊なものであったため、解説者同士の情報交換といえば、年に一度開催される「日本プラネタリウム研修会」と、そこから発行される機関紙「プラネタリウム会報」のみでした。その頃のプラネタリウムの投影スタイルは、東京渋谷の天文博物館五島プラネタリウムに代表されるとおり、日没に始まり、今宵の星空の解説と後半で取り上げられる、その月の天文の話題に関して、スライド映写機によるスライドを主体とした生解説でした。

 私たちのプラネタリウムでは、このようなスタイルとは少し異なり、生解説を行うのは、学校団体からリクエストがあったときのみで、一般利用者を対象とした「一般投影」は、事前にシナリオを書き、それを地元のスタジオでBGMも含めて録音したテープを使い、スライドは、四角い枠のフレームがドームスクリーンに出ないように、オペークという写真製版用の塗料で塗りつぶして使用して、演出を行っていました。つまり現在のプラネタリウムで主流となっている投影手法の原型ともいえる形であったのです。ただし、当時は番組を制作する予算もほとんどなく、スライドの原画も自作、スライド撮影も自分たちですべて行うというもので、録音についてもスタジオに出向いて、シナリオのナレーションに関してリクエストを出しながら収録するというものでした。

 このような制作方法は、プラネタリウムの解説者としては、大変勉強になるものでしたが、すべてを自分たちでこなすのには限界があり、イラストがうまくなりたい、写真撮影に対してさらに知識を深めたい、演出についてもさらに洗練されたものにしたい。などマンネリ化を脱するためには、一度外に出て、一回り大きなプラネタリウム解説者になりたいと思いが強くなりました。そんな時、東京中野の文化センターで開催されたプラネタリウム研修会において、当時九州の宮崎にのプラネタリウムに勤務していたKさんと出会うことになります。

 その研修会の研究発表において、私も、それまでに手がけた代表的な番組のひとつを投影させていただきましたが、それ以上に度肝を抜かされたのはKさんの手がけた番組の発表でした。番組の演出の斬新さ、ナレーションも含めたサウンドの完成度の高さ、そしてスライドの発色の美しさ、映像の動きなどのすべてが、私が抱いていたプラネタリウムのそれまでの概念を超えるものでした。そしてぜひ、この人の下について、もう一度プラネタリウムに関して基礎から勉強してみたいと思うようになったのです。

 それからしばらくたったある日、ある人物を介してKさんから連絡がありました。それは・・・Kさんの職場でスタッフの異動が出たので宮崎に来て一緒に仕事をしないかというものでした。しかし、給料のほうは残念ながら、それまでの職場に比べると逆に低いもので、はるか遠くの地でひとりで生活していけるだけのものなのかどうか、不安をかきたてるものでした。

 職場を退職して、九州に行くべきかどうか、大いに迷った末、最後にはどうしたらよいのかわからなくなってしまいました。何人かの人に相談もしてみましたが結論が出ませんでした。しかし、なぜ迷うのかを良く考えたとき、もし仮に行こうとする気がなければ迷うことがないのだから、結局は自分の心の奥に、行きたいと言う気持ちが存在するのではないかと思うようになりました。給料の低さは、生活ができれば良く、将来になって取り戻せばよいと言い聞かせ、紹介してくれた人を介して、連絡を入れました。「7月に入ったら九州に行きます・・・・」。 こうして、私のプラネタリウムの第2のスタートが始まることになったのです。

 茨城県の水戸から南国宮崎へ、ドームの大きさは、それまでの7メートルから一挙に16メートルへ、プラネタリウムの機械も五藤光学製GS−8型からGM15型へ、しかもアストロビジョンという全天周映画の装置も備えた2つの16メートル・ドームを持った設備へと私の職場は移っていったのです。そしてそれは、後に私の運命を大きく変える出会いへとつながっていくことになったのでした。


2006(平成18)年2月22日に当時を思い出しながら記述)